第九巻 残夢の骸まとめ(改訂)

満州国演義9a.pdf
【取り扱う期間】1944年6月30日~1946年5月上旬

【概略】
 すべての戦いで負け続けるかのような、陰鬱な巻である。東條英機の退陣により好転するかと思われた意思決定はますます混乱し、誰が主導権を持っているのかわからない状態になる。サイパン陥落、硫黄島陥落により本土爆撃が日常となり、本土決戦が意識されるようになる。一方でソ連の仲介による講和についても模索しており、矛盾した方針で進む中ついに原爆が落され、ソ連は密約通り満州に進攻を開始する。そして、ポツダム宣言を受諾し玉音放送が流れる。
 特攻の悲劇、愚劣な上官、何を目指してやっているのか分からない戦争、矛盾した方針、断末魔の大日本帝国が痙攣しているかのようである。
 物語は玉音放送では終わらずに、半分をソ連軍による満州の蹂躙状況やシベリア抑留、知られざる通化事件に割いている。描かれた状況はまさに先日もテレビでやっていた満州引揚者からの証言と一致している。
 最後は四郎のみ生き残り日本に引き揚げる。今までのすべてが壮大な悪夢であったかのような、寂寥感が漂うラストである。すべてを失い、希望はまだ何も見えない。それでも人は生き続ける。
 日本人が知るべき歴史を生々しく描いた、必読の小説と言ってもいい大作がついに完結した。

【描かれる主な事件・事項】
 司馬遼太郎は明治と昭和を比べて明治までの日本人は立派で昭和は堕落したと断じた(筆者は原文に当たっていない)と言われるが、そのような史観に対し船戸与一氏は真っ向から異なる史観を提示しているように思える。そのような捉え方では本質は見えない。明治と昭和は断絶していない、血塗られた明治維新の必然の結末として大東亜戦争があったのだ、と。
 それを新聞記者香月信彦にこのように語らせている。幕末以来の日本の歴史を総括する、満州国演義の中でも最重要セリフと思われるくだりを、かなり長くなるが引用したい。

結局は民族主義の問題だった」
「吉田松陰の幽囚録には(中略)欧米への対抗策が書き記されている」

「いま急に武備を収め、艦ほぼ備わり砲ほぼ足らば、すなわちよろしく蝦夷を開墾して諸侯を封建し、隙に乗じてカムチャッカ・オロッコを奪い、琉球を諭し、朝覲会同すること内諸侯と比しからしめ、朝鮮を責めて質を納れ貢を奉ること古の盛時のごとくならしめ、北は満州の地を割き、南は台湾・ルソンの諸島を収め、漸に進取の勢いを示すべし」

「これまで地下水脈として流れていた日本の民族主義は黒船の来航で一挙に顕在化した。このままでは欧米によって植民地化されるという危機感に包まれた。その打開策を論じたのが吉田松陰だよ。それに平田篤胤の国学に心酔した連中が続き、尊皇攘夷となって現れた」

明治維新という内戦を終えたあとも吉田松陰のこの打開策は生き続けた。(中略)明治政府は生起する矛盾を溶解する手段として黒船来航前は暦の変更ぐらいしか政治に関与できなかった天皇を日本の全てを統べる中心に据えつけ、欧米列強による植民地化を回避するために躍起となった。その方法を巡っては大雑把に言ってふたつに分かれる。ひとつは伊藤博文に代表される近代化論。もうひとつは山縣有朋が領導した兵営国家論。このふたつがあるときは対立しながら、あるときは補完しながら被植民地化を回避し、吉田松陰が提示した打開策に向かって突き進んでいった」

「植民地化を避けるためにはアジアを植民地化するしかない。それが「幽囚録」で示されたとおり朝鮮を併合し、満州領有に向かうことになった。これに日本民族主義の発展形たる大アジア主義が合流し、東亜新秩序の形成をめざして走りだしていった。民族主義は覚醒時は理不尽さへの抵抗原理となるが、いったん弾みがつくと急速に肥大化し覇道を求める性質を有するものだ。これは植民地主義を白人の専有物だと考えていた欧米列強にすさまじい衝撃を与えた」

「ペリーの来航によって完全に覚醒した日本の民族主義は松蔭の示した方法によって怒涛の進撃を開始し、アメリカの投下した二発の原子爆弾によって木端微塵にされた。日本の民族主義の興隆と破摧。たった九十年のあいだにそれは起こった。これほど劇的な生涯は世界史上類例がないかも知れない。この濁流の後片付けに日本は相当の歳月を要することになるだろう

 筆者は、これこそ船戸与一氏がこの小説に込めたメッセージなのだと思う。ここには明治も昭和もない。あるのは民族主義の興隆と破摧である。
 そう考えてみると、現在に続く韓国との慰安婦を巡る確執、中国との尖閣諸島領有権、北方領土、沖縄基地移設、憲法問題のすべてはこの濁流の後片付けなのである。それは現在の日本だけにとどまらない。原因は異なれどかつて日本であった朝鮮半島の分裂状態は未だ解決せず、台湾は中国と緊張関係にある(この言い方自体がすでに政治的な考えを含んでしまっている)。戦後70年経ちながら、なおもその濁流の残骸があちこちに散らばっているのだ。
 もう一つ思うのは、日本民族主義の興隆は巨大な叛アメリカ史であり、まさに船戸与一氏が追ったテーマだったということである。
 その他にも東條英機暗殺の動きが陸軍、海軍にあったこと、特攻の真実、玉音放送阻止の宮城事件などどれもこれも日本人が知るべき歴史が満載である。
・ 東條英機暗殺計画
・ サイパン陥落
・ 東條英機内閣総辞職
・ ワルキューレ作戦
・ 捷号作戦
・ 根こそぎ動員
・ 繆斌工作
・ ロンドン爆撃
・ 台湾航空戦
・ レイテ沖海戦
・ 神風特攻
・ パラオ陥落
・ 松代大本営
・ 拉孟・騰越の戦い
・ バルジの戦い
・ 特攻の真実
・ ヤルタ会談
・ マニラ攻防戦
・ 硫黄島の戦い
・ 東京大空襲
・ 菊水作戦
・ 沖縄戦
・ ルーズベルト大統領急死
・ ムッソリーニ処刑
・ 沖縄玉砕
・ 決号作戦
・ 一撃講和論
・ 諌の思想
・ ポツダム宣言
・ 原爆投下
・ ソ連軍の侵攻
・ 宮城事件
・ 玉音放送
・ ニュルンベルク裁判
・ シベリア抑留
・ 通化事件
・ 狂乱物価

【主人公の物語】
・ 太郎は国務院外交部政務処長のままである。この時期、満州国の官僚には重要な情報は入らなくなり、その代役を四郎が担うようになる。堀場哲男殺害で逮捕された間垣徳蔵の見舞いで間垣徳蔵と従兄弟であるという因縁の繋がりを知る。ソ連の進攻により満州国が崩壊し、シベリアに抑留される。イズベストコーワ第9強制収容所6号棟で間垣徳蔵と偶然いっしょになる。収容所では思想改造が行われ、スターリンへの賞賛を強要されそれに同調する者達が現れる。太郎は甘い菓子欲しさに懐柔され密告を行なう。それを哀れんだ間垣徳蔵が罪をかぶり、自ら射殺される。太郎は最後の良心で自分の尊厳を守るためにその夜に自殺を選んだ。
・ 三郎は関東軍機動第2連隊第1中隊長・少佐から関東軍作戦課・少佐に転属する。敗戦が迫る中、ソ連軍が東に移動していることを目の当たりにする。精鋭と言われた関東軍は南方に次々と引き抜かれ、訓練不足、武器不足の素人集団になっていた。ソ連が侵攻すると北満の状況を確かめに出かける。そこでは関東軍に見捨てられた移民たちがソ連軍・隣人・旧国軍・旧国警から逃げ惑っていた。途中で本西照夫を助ける。最後は通化に辿り着き諏訪牧彦に本西照夫を預け、通化での日本人蜂起に樽床正次とともに参加して命を落とす。
・ 四郎は関東軍特殊情報課第4班嘱託少尉である。読者に戦況を伝える役割を果たし、主任の藤岡政男の甥である三隅昇一から特攻の悲惨な実態を知ったり、フィリピンの国内事情を目の当たりにしたり、弥栄村を再訪したりする。やがて玉音放送後にソ連軍から酷い仕打ちを受けないように解雇された。新京にやって来た避難民の中に松尾千晶を発見したが、ソ連兵に強姦されすぎて気が狂れていた。やって来たソ連軍の中に参謀本部情報総局中尉のタチアナ・ブレジンスカヤがいて、肉体関係を強要される。諏訪牧彦から三郎の死を知らされ、本西照夫を預かる。やがて帰還船に乗って日本へ引き揚げ、本西照夫の祖父の元へ届ける。混乱する日本の中でどう生きていくのか、答えは見えない。

この記事へのコメント

  • ASTOK

    最近やっと全9巻を読み終わりました。こちらのブログを拝見し、とてもわかりやすく4兄弟の足取りを振り返ることができました。ありがとうございました。
    今再び1巻から読み返しているところです。
    2016年08月27日 20:25
  • さすらい人

    >ASTOKさん

    通読のみで理解するのは情報量も多く難しいですね。
    特に時間経過、場所がなかなか把握しづらいと思われます。
    お役に立てたようで、公開した甲斐がありました。
    2016年08月27日 22:40
  • 伊東 知香

    突然のコメント、失礼します。

    実は私の所属しています劇団ピープルシアターでは、生前の船戸先生からお許しをいただき、船戸作品を舞台化しています。

    今まで、砂のクロニクル・新宿、夏の死・蝦夷地別件と上演してきました。

    この度、10月には満州国演義を上演します。ご興味がございましたら、ぜひ観にいらして下さい。

    ピープルシアター
    http://peopletheater.moo.jp/
    2017年07月04日 15:27